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3.近紫外逆光電子分光法の開発

3.1 試料損傷を防ぎ、同時に分解能を向上させる方法 ― 近紫外逆光電子分光法

このような低分解能有機試料の損傷という二つの問題点を解決し、有機半導体の信頼できる測定が可能なIPESができないか、考えてきた。まず、問題にしたのは、試料損傷である。それは、どんなに分解能が高くても、試料が損傷してしまっては、当然のことながら測定の意味がないからである。そのアイデアは、「試料損傷が起こるのは、有機分子の共有結合が切れるためである。照射する電子の運動エネルギーを共有結合よりも低くすれば、損傷は防げる」というものである。実際に、文献を探すと、5 eV以下のエネルギーの電子では、分子の損傷が大きく抑えられることが報告されている[1]。そこで、安全を見て、4 eV以下のエネルギーの電子でIPESが測定できないか、考えてみる。



実は、照射電子の運動エネルギーを下げると、「風が吹けば桶屋がもうかる」式に、分解能も向上させることができる。下の図に示すように、照射電子の運動エネルギーと放出光と空準位のエネルギー準位には、エネルギー保存則が成り立つ。多くの有機半導体の電子親和力(空準位の底)は、5 eV以下であるから、4 eV以下の電子を照射すれば、放出される光のエネルギーも5 eV以下(波長で250 nm以上)になる。本方式では、近紫外光(200 nm-400 nm)を検出するので、近紫外逆光電子分光法(NUV-IPES)と呼ぶことにする。

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図3-1: 近紫外逆光電子分光のエネルギーダイヤグラム

このような近紫外光では、従来のような分解能の悪いバンドパス検出器を使う必要はなく、誘電多層膜を用いたバンドパスフィルターを検出に使うことができる。このフィルターは、屈折率の異なる2種類の物質の多層膜により光の干渉によりバンドパス特性を実現する。このため、中心波長を近赤外から近紫外域で変えられるほか、分解能も自由に選べる。しかもフィルターの透過率は250~300 nmで60%以上、300 nm以上では80%と高く、光検出に高感度のホトマルを使うことで、高い検出効率がえられる。バンドパスフィルターとホトマルを組み合わせた光検出器の感度曲線を図3-2に示す。比較のため、従来の有機固体の研究によく使われてきた真空紫外域のバンドパス検出器の特性も示した[2]。分解能は0.1~0.2 eVと従来のバンドパス検出器の2倍~7倍に向上している。感度曲線は矩形であり、高い透過特性と分解能を同時に実現する理想的な形状である。

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図3-2: 積層多層膜バンドパスフィルターとホトマルを組み合わせた光検出器の感度曲線(左)と従来使われてきたバンドパス検出器の特性(右;文献[2]より)。

3.2 近紫外逆光電子分光装置

以上の測定原理を実現するために設計・製作したNUV-IPES装置の概略を図3-3に示す。電子銃で発生した電子を試料に照射し、放出光をレンズにより前述のバンドパスフィルターとホトマルにより構成された光検出器に集める。従来のVUV-IPESでは、波長130 nmの真空紫外光を検出するため使用できる光学部品が高価で選択肢が極めて狭く、光検出は真空中で行わなければならなかった。NUV-IPESでは近紫外光を観測するため、石英レンズなどの安価で高性能の光学部品が使えるほか、大気中で光検出を行うことができる。このことから、装置の製作・調整が飛躍的に容易になった。
次のページでは、この装置を使って測定したスペクトルを紹介した後、試料損傷とエネルギー分解能を評価する。

[詳細] 電子銃には、Erdman-Zipf型[3]を採用した。Stoffel-Johnson型[4]でも試したが、測定はできる。しかし、Erdman-Zipf型に比べてアノード電圧が高いために光のバックグラウンドノイズが高い。カソードは、酸化バリウム(BaO)にした。入手可能なカソードの中で最も動作温度が低く(=熱によるエネルギー広がりが少ない)、十分な電流密度が取れるためである。以前、容易に入手できたCRT用のBaOカソードは手に入らなくなってしまった。今回は、Kimball Physics社のものを購入した。高価ではあるが、性能は安定しているようと思う。カーボンナノチューブなどの冷陰極も試したが安定性が悪かった[5]。レンズは、最初は平凸石英レンズを一枚使っていた。その後、収差補正したレンズに替えたところ、光の強度が2倍以上に上がった。このような収差補正が容易にできることも近紫外光を扱っているメリットである。ホトマルには、浜松ホトニクスR585を採用した。近紫外域に高い感度をもち、バックグラウンドが低い製品というと、他に選択肢はない。光子計数には、(古い)ORTECのプリアンプ、ディスクリミネータ、カウンターを使っている。

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図3-3: 実験装置の概略。


[1] B. Boudaiffa, P. Cloutier, D. Hunting, M. A. Huels, and L. Sanche, "Resonant formation of DNA strand breaks by low-energy (3 to 20 eV) electrons," Science 287, 1658 (2000).
[2]F. Schedin, G. Thornton, R.I.G. Uhrberg, Rev. Sci. Instrum. 68, 41 (1997).
[3]P.W. Erdman, E. C. Zipf, “Low-voltage, high-current electron gun”, Rev. Sci. Instrum. 53, 225-227 (1982).
[4]G. G. Stoffel, P.D. Johnson, “A low-energy high-brightness electron gun for inverse photoemission”, Nuclear Instruments and methods in physics research section A, 234, 230-234 (1985).
[5]吉田弘幸、大津彰良 『電子エネルギー分析器コムストックAC-900シリーズ』、Molecular Science, 6, NP0019 (2012).